Ⅲ 第94回「ダンマパダ115」

ⅢDhp115白萩


「ブッダの語ったとされることばに最も近い教え」



   「法句115」


無上(むじょう)の
法(ほう)・真理(しんり)を

見()る事も無く
百年生()きるよりは


無上の法・真理を
見透(みとお)して

一日生きる方(ほう)が
勝(すぐ)れています








【場所】ジェータ林(祇園精舎)

【誰のこと】バフプッティカー長老尼






【原因と結果】

サーヴァッティの都の、
ある財産家の母親の事です。


その家には、
7人の息子と7人の娘がいました。


14人の子供たちは、

それぞれが独立して家をもって、
幸福に暮らしていました。



やがて、父親が亡くなりました。

けれども、母親は、
父親の遺産(いさん)を

子供たちに
相続(そうぞく)させませんでした。


子供たちは、母親に
何度も遺産の相続を要求しました。



度重(たびかさ)なる子供たちの要求に、
母親は考えました。


「いずれ息子たちが、私の
世話をする事になるでしょう」 と。


そこで母親は、
すべての財産を、

子供たちに
等しく分配(ぶんぱい)しました。



けれども数日後、
長男の嫁は、言いました。


長男の嫁:
「ああ、お義母様(かあさま)は、

あたかも財産の半分を、
長男に与えたかのように

『この子は長男です』と言って、

この家にばかり、
来ていらっしゃる!」


更に、
他の6人の息子の嫁たちも、

長男の嫁と同じような事を
言いました。



母親は、息子の嫁たちの
軽(かろ)んじ、侮(あなど)る

軽蔑的(けいべつてき)な態度に
考えました。


「息子たちのところで人生を送っても、
意味が無い。

修行尼僧として、
これからの人生を生きよう!」 と。



彼女は、
修行尼僧たちの住まいへ行きました。


出家が認められて、
子沢山(こだくさん)という意味の

バフプッティカー長老尼と、
呼ばれるようになりました。



彼女の決意は、
固く、強く、深いものでした。


「自分は、年老(としお)いてから
出家したので、

堅固(けんご)に
精進努力しなければならない!」 と。


バフプッティカー長老尼は、

修行尼僧のありとあらゆる務めを
成()し遂()げて

ブッダの「教え・法」の練修修行を、

昼も夜も絶えず、
怠る事なく懸命に努めました。



ブッダは、
バフプッティカー長老尼僧の

真面目(まじめ)、
ひたむき真摯(しんし)で、

勤勉(きんべん)な
修行態度(しゅぎょうたいど)を知られて、

「教え・法」を説き示されました。






【教え】

「無上の法・真理を見る事も無く」とは。

人は、欲がある限り、
静まる事はありません。


物をもてば、もつほど
貪欲(どんよく)になっていき、

財産があれば、
あったで心配になります。


誰かを頼りにすると、
自分自身は失われて、

頼った人に迷惑に思われたり、
支配されるようになります。



「無上の法・真理を見透して」とは。

自分自身を知る事。

自分は、何をするべきなのか?
何をするべきではないのか?



「無上の法・真理」は、
これらをはっきり教え、

私たちが歩む「」を
示しています。


の無い、
怒りの無い、

気づきのない愚かさ
=煩悩の無い「」の実践です。


それは、真(まこと)に

自分自身も
他の人も傷つけない、

後悔しない、
後悔させない「」です。



自分自身の「三毒」:
「貪(とん)・瞋(じん)・痴()」を観ます。


これらを深く観とおして、
一日でも、一瞬一秒でも

生きる方が勝れています、と
教えています。





  他人のせいにせず、自分を見つめ、
  生き方を変えることは厳しいものであるということです。
  真に実践的であるものは、厳しさを伴うのです。

   (『アドラーをじっくり読む』 中公新書ラクレ 岸見一郎 p.13)







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Ⅲ 第93回「ダンマパダ114」

ⅢDhp114萩


「ブッダの語ったとされることばに最も近い教え」



   「法句114」


不死(ふし)の
境地(きょうち)を

見()る事も無く
百年生()きるよりは


不死の境地を
見透(みとお)して

一日生きる方(ほう)が
勝(すぐ)れています







【場所】ジェータ林(祇園精舎)

【誰のこと】キサーゴータミー長老尼





【原因と結果】

キサーゴータミー長老尼は、

サーヴァッティの都の、
貧しい家に生まれましたが、

善()い縁(えん)があって、
富豪の家の息子と結婚しました。


間もなく、男の子が生まれました。


家族は、跡継(あとつ)ぎができて、
大喜びでした。


けれども、その子が、

よちよち歩きをするようになった時、
亡くなってしまいました。


キサーゴータミーは、
死という事を知りませんでした。


幼い息子のために、
薬を求めて、

狂人(きょうじん)のように
歩きまわりました。


ある賢者が、
あまりにも哀れに思って、

キサーゴータミーに教えました。


賢者:
「キサーゴータミーよ、
ブッダがその薬をご存じですよ」



キサーゴータミーは、
ブッダを訪ねました。

そして
切(せつ)にお願いしました。



ブッダは言われました。


ブッダ:
「キサーゴータミーよ、
都、町、村の家々を廻(まわ)って、

まだ子供を亡くした事の無い家から、
一握(ひとにぎ)りの

芥子(からし)の種(たね)を
貰(もら)って来なさい」


キサーゴータミー:
「尊師よ、分かりました」



けれども、
子供を亡くさない家は、

どこにも見当たりませんでした。


インドは、大家族制のため、
どの都、町、村も、

生きている人より
亡くなった人のほうが、多かったのです。


キサーゴータミーは、
ブッダに報告しました。


キサーゴータミー:
「尊師よ、
すべての家々を廻りましたが、

亡くなった子供がいない家は、
見つかりませんでした」



ブッダは言われました。

ブッダ:
「キサーゴータミーよ、あなたは

亡くなったのは、
自分の子供だけと思っていますが、

滅(めつ)は、
生けるものの、

避()けては通(とお)れない
定(さだ)めです。


閻魔王(えんまおう)は、
大洪水(だいこうずい)のように、

生けるものの望みが、
まだ叶(かな)わないうちに、

すべてを運び去って、
苦しみの海に投げ込みます」



キサーゴータミーは、
この「教え」によって、

聖者の最初の境地「預流果(よるか)」に
達して、出家しました。


そして、
キサーゴータミー長老尼となりました。



ある日

「戒律(かいりつ)」の
条文(じょうぶん)を唱え、

自分自身の行った罪(つみ)を

懺悔(ざんげ)する
儀式(ぎしき)を行う

布薩堂(ふさつどう)で、
灯明(とうみょう)を

点灯(てんとう)していた時でした。


その灯明の炎(ほのお)が
燃()えあがったり、

薄(うす)らいだりしているのを
見ていました。



確かに この生けるものたち・
私たちは、

この灯明のように、
生じたり滅したりしている。


しかし 魔の縛り・執着、
貪り・怒り・気づきのない愚かさ=

煩悩から
解放された人たちには、

「生や滅」に対して、
恐れや、執着が認められない!」

と、眼の前の対象を、
しっかりと理解しました。


そこでブッダは、

キサーゴータミー長老尼に
「教え・法」を説き示されました。






【教え】

「不死の境地を見透して」とは。

不死の境地を見る前に、
まず「死とは何か?」です。


それは、私たちが、

最も苦しいと思うもの、
ではないでしょうか?


自分自身が消える、という事が
恐ろしいのは、

執着でしかありません。


 「自分が大事(だいじ)!」
 「自分だけは、年を取りたくない!」
 「病気になりたくない!」
 「死にたくない!」


このような思いで
100年生きるよりは、

恐怖の極(きわ)みから
解放されて、生きる事です。


それは自由で、くっつかない、
触れる事が無い事です。


不死とは、そういう恐怖の
極みが無い事です。


すなわち、
魔の縛り・執着、

貪り・怒り・気づきのない愚かさ=
「煩悩から解放されている事」です。


それが「不死」
死なない事、と言われます。


執着が無い、恐れが無い事です。


私たちは、
死を克服するためには、

いきなり死をみても
解決できません。


今ここ」において、
私たちがくっついている

「執着している、身近なところ」
そこに問題がある事に気づきます。


そのためには

「十の善い行いの道」を、
一歩一歩進んでいきます。


「十の善い行い」:
 1. (身体)の行い―
   「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」

 2. (言葉)の行い―
   「不妄語」「不悪口」「不両舌」「不綺語」

 3. (こころ)の行い―
   「不貪欲」「不瞋恚」「正見」


「十の善い行いの道」:「3つの行い」

 1.(こころ)で思う事
 2.思った事を語る
 3.思った事を手足や身体で行う


これら
 「体」
 「(言葉)」
 「(こころ)」を

調える「」は、

解放されるための
「教え」として示されています。


それは、私たちが
練修し「行っていける道」です。





  この世界は完全ではなく、理不尽なことばかりが起こる
  と思うことがあります。
  子どもや若い人が早世すること、
  事故や災害にあうこと、事件に巻きこまれること……。
  ……しかし、それでも、人生は苦しいことばかりだと
  いうのも本当ではないでしょう。

    (『アドラー心理学実践入門』 KKベストセラーズ 岸見一郎 p.200)







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Ⅲ 第92回「ダンマパダ113」

ⅡDhp113蓮


「ブッダの語ったとされることばに最も近い教え」



   「法句113」


生(しょう)と滅(めつ)とを
見()る事も無く

百年生()きるよりは

生と滅とを
見透(みとお)して

一日生きる方(ほう)が
勝(すぐ)れています






【場所】ジェータ林(祇園精舎)

【誰のこと】パターチャーラー長老尼





【原因と結果】

パターチャーラー長老尼は、

サーヴァッティの都の
富豪(ふごう)の家に、

美しい娘として生まれ、
大切に育てられました。


16歳になった時、
召使の若い青年と、恋に落ちました。


けれども、
パターチャーラーの両親は、

同じ階級の青年と、
結婚させようとしました。


それでパターチャーラーは、
召使いの青年と、

ひそかに家から逃げて、
とある村へ行き、

そこで、
慎(つつ)ましく暮らしていました。


やがて、子供を宿して、
実家で出産したいと思いました。


けれども、夫は、
実家に帰る事を承知しませんでした。

そこで、
初めての子供が生まれました。


次に、
二番目の子供を宿した時、

今度は、絶対に実家で
出産したい、と思いました。


そのため、
初めの子を抱いて家を出ました。


ところが、夫が
追いかけてき来て、

阻(はば)まれ、
止められてしまいました。


その時、突然に
雷が鳴って、大雨となりました。

と同時に、パターチャーラーに
陣痛が始まりました。


家族みんなで避難(ひなん)しようと、

近くにあった
蟻塚(ありづか)へ行きました。


ところが夫は、

そこから出てきた毒蛇に咬まれて、
命を落としてしまいました。


そこで、
二番目の子供が産まれました。


夜が明け、朝日が昇って、

パターチャーラーは、
悲しみいっぱいに、

二人の子供を連れて、
実家に向かって歩き出しました。



途中、アチラヴァティー河を、
渡らなければなりませんでした。


けれども、河は大雨で、
水かさが増えていました。


パターチャーラーは、まず、

上の子を
<こちらの岸>に残して、

ここで待っているように、
言いました。


下の子を抱いて河を渡り、

<向こうの岸>に
下の子を寝かせました。


そして、上の子を連れに
河の真ん中まで行った、その時、

一羽の鷹(たか)が
舞い下りてきて、

<向こうの岸>に寝かせた
下の子を捕(とら)えました。


それに気づいた
パターチャーラーは、

その鷹を追い払おうと、
手を振りあげて、

三度、大声でさけびました。


パターチャーラー:
「スー!スー!スー!」


ところが、
母親のその声を聞いた上の子は

「母親が自分を呼んでいるのだ」 と
思って、急いで、

河に入って来てしまい、
流れに呑み込まれてしまいました。


と同時に、下の子も
鷹の犠牲(ぎせい)となってしまいました。


夫を失った上に、
一瞬にして、

二人の子供も失った
パターチャーラーは、

深い嘆きと悲しみで、

ただひたすら長い道を、
何日も歩き続けました。



ようやく、サーヴァッティの都に
入ると、旅人に出会いました。


その旅人に、実家について尋ねました。


その返事はこうでした。

旅人:
「ご婦人よ、お気の毒な事です。

今回のこの豪雨で、
あなたの家は崩壊(ほうかい)して、

ご両親もご兄弟も亡くなられました。


あれがご家族皆さんの
火葬(かそう)の火です」



パターチャーラーは、
茫然自失(ぼうぜんじしつ)となりました。


着ていた衣服は脱げ落ち、
半裸(はんら)となって、

あたかも狂人(きょうじん)のように、
さ迷(まよ)い歩き続けました。


それを見た人々は、

パターチャーラーに
石や、汚れた物を投げつけけました。




その時、ブッダの目に、
パターチャーラーがとまりました。


ブッダは、

今のブッダ・釈尊以前のブッダである、
過去仏の時代に

パターチャーラーが、

善い決意をもっていた事を
[智慧の眼で]観られました。


そこでブッダは、
パターチャーラーに声をかけられました。


パターチャーラーは、
ようやく正気に戻り、

ブッダにこれまでの出来事を、
すべて申しあげました。


ブッダは言われました。

ブッダ:
「パターチャーラーよ、
案じる事はありません。


この迷いの世界の

生(しょう)と滅(めつ)を
繰(く)り返(かえ)す

「輪廻(りんね)」において、

あなたのように、
夫や子供たちを亡くして、

嘆き悲しむ人たちの涙は、

全世界の大海の水よりも多く、
深いのです」


ブッダは、更に説かれました。


ブッダ:
「パターチャーラーよ、

あの世へ行く人にとって、
子供をはじめ、身内も、

肉親も、親戚縁者(しんせきえんじゃ)も、

誰も拠()り処(どころ)となる事は
できません。


賢(かしこ)い人は、
この道理を知って、

貪り・怒り・気づきのない愚かさ=
煩悩の無くなった安らぎの世界

「涅槃(ねはん)にいたる道」を

直(ただ)ちに
浄(きよ)めるのです!」



パターチャーラーは、
このブッダの「教え・法」で

聖者の最初の境地に達し、
出家しました。



数年の
練修修行が経過したある日、

パターチャーラーは、
足を洗おうとして、水を注(そそ)ぎました。

水は、少し流れて止まりました。


2回目に水は、
1回目より、遠くに流れて行きました。


3回目には水は、
2回目より、更に遠くに流れて行きました。


パターチャーラーは、
これを「瞑想対象(めいそうたいしょう)」として、

人生を3期に分けて考えました。


「生けるものたち・人々は、私が

最初に注いだ水のように、
青年期にも滅する。


2回目に注いだ水が、
1回目より遠くに流れていったように、

壮年期にも滅する。


3回目に注いだ水が、
2回目より、更に遠くに流れて行ったように、

老年期にも滅する」 と。



その時ブッダは、
住いの香房(こうぼう)に坐られたまま、

パターチャーラーに
「教え・法」を説き示されました。






【教え】

「生と滅とを見る事」とは。

自分自身の「身体と心」:
「五蘊(ごうん)」の

「生起と消滅」を見る事です。


自分自身が、
「三界(さんがい)」に身を置いたり、

行ったり来たりする
「六道輪廻(りくどうりんね)」の迷いの世界において、

その「生起と消滅」を繰り返す事を
深く観透して、

一日でも、一瞬一秒でも生きる方が、
勝(すぐ)れています。




まず
「三界」に身をおく事を深く観ます。

「三界」:

 1. 欲界(よくかい)― 欲に執着する世界
 2. 色界(しきかい)―自分自身の身体に執着する世界
 3. 無色界(むしきかい)― 精神・心に執着する世界



次に、行ったり来たり
「生起と消滅」を繰り返す

「六道輪廻」をよく観て、
深く観透します。


「六道輪廻」:

 1.天上(てんじょう)-楽しみの世界。

 2.人間(にんげん)-欲、身体・心に執着している世界

 3. 地獄(じごく)-苦しみの世界

 4. 餓鬼(がき)-食べる事に限度が無い。あるいは、
         食べ物や飲み物が無い苦しみの世界

 5. 畜生(ちくしょう)-理性を失い、本能のままに行う世界

 6. 修羅(しゅら)- 暴言を吐き、いつも喧嘩や争いをしている世界



今日一日、このひととき

静かに坐り、静かに深く観る
坐禅瞑想「気づきの呼吸」をします。


そして
智慧」をもって

深く観透して、
安らぎ、喜び、幸せを感じます。


いまに生きる」事を知った時、

真実の生命、
本当の自分自身を知ります。





  今生きづらいと思っている人が、
  そのように思うことの原因が過去に経験したことや、
  社会的な諸問題……
  それらによって今の、そしてこれからの人生が
  必ず決定されているとは考えないことが重要です。

   (『アドラーをじっくり読む』 中公新書ラクレ 岸見一郎 pp.6~7)

  





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Ⅲ 第91回「ダンマパダ112」

ⅢDhp112秋明菊


「ブッダの語ったとされることばに最も近い教え」



   「法句112」


怠惰(たいだ)に
耽(ふけ)って

励(はげ)む事が無く
百年生()きるよりは


定まり、精進努力
(しょうじんどりょく)して

一日生きる方(ほう)が
勝(すぐ)れています







【場所】ジェータ林(祇園精舎)

【誰のこと】サッパダーサ(蛇を奴隷とする)長老





【原因と結果】

サーヴァッティの都に、

ある家柄の善い家に
生まれた息子がいました。


彼は、

ブッダの「教え・法」を聞いて、
出家しました。


けれども、
間もなく、不満が出てきて

「こんなんだったら死んだ方がましだ!」と
思いました。


彼は、自殺の仕方を考えて、
あちらこちらと歩き回りましたが、

方法が見つかりませんでした。


そこで、精舎に

毒蛇(どくへび)の入った壺(つぼ)が
あるのを見つけて、

その中に手を入れ、
咬()まれて死のうとしました。


けれども、蛇は、どんなにしても
彼に咬みつきませんでした。



ある日、修行僧たちが、
精舎で頭を剃()っていた時の事です。


彼は、地面に置()いてある、
剃刀(かみそり)をつかみ、考えました。

「よし、
これで首を切って死のう!」と。


そして、とある木の下で

剃刀の刃先(はさき)を
喉笛(のどぶえ)に当てて、

今までの自分自身を
思い起こしてみました。



修行僧団に入って、
具(そな)えなければならなかった

「戒」・「具足戒(ぐそくかい)」を
受けてから今日までの、

自分自身の保ってきた
「戒」が思い出されました。


その「戒」は
まったく汚れの無い、

月の輪のように清浄で、
清らかでした。


悪い行い、過(あやま)ち、
煩悩欲を離れていて、

塵(ちり)や垢(あか)の
無いものである事が見えました。


全身に喜びが
満()ち、充()ちてきました。


彼は、喜びを抑(おさ)えて
「観の禅定」を深めていきました。


やがて彼は、
魔の縛り・執着が無くなって、

貪り・怒り・気づきのない愚かさ=
煩悩が滅し尽くして、

解放された自由な境地の
「智慧」とともに

聖者の最高の境地に達して、
阿羅漢となりました。


彼は、
剃刀を手にもって精舎に帰りました。


修行僧たちは、彼に尋ねました。

修行僧たち:
「友よ、どこに行っていたのですか?」


確かに 彼は、

剃刀で喉首(のどくび)を切って、
死のうと思った事。


しかし 「智慧」の剃刀で
一刀(いっとう)のもとに、

すべての魔の縛り・執着、
煩悩を斬()り捨て、

断ち切った事を話しました。



修行僧たちは、
彼が嘘(うそ)を言っていると思って、

ブッダに報告しました。


ブッダは言われました。

ブッダ:
「修行僧たちよ、
煩悩を滅し尽くしている人・

漏尽者(ろじんしゃ)は、
自分自身の手で、

自分自身の生命(いのち)を
断つ事はありません」


更に、ブッダは語られました。

ブッダ:
「修行僧たちよ、

前世では、蛇が、
彼の奴隷(どれい)であったのです。


また、今のブッダ・釈尊より
一つ前のブッダである

カッサパ仏の時代に、既に
彼は修行僧となり、

不満が募(つの)る時があっても、
2万年にわたって、修行僧として

「教え・法」「道」の練修修行を
満たしていたのです」 と。






【教え】

「3つの考え」があります。

1. の考え、
2. 怒りの考え、
3. 自分自身も他の人も傷つける考え、
  自分自身も他の人も後悔する考え、です。



「怠惰(たいだ)に耽(ふけ)って
励む事が無く」とは。

これら「3つの考え」によって
「原因結果の法則」を無視し、

間違った見方、
考え方によって生きる事です。


確かに 最初から
勝れている人は、少ないです。

私たちは、
迷い、悩み、苦しみ、不満も起こります。


しかし善き友」によって
善き教え」によって、

「教え・法」の練修修行に
精進努力して行ったならば、

迷い、悩み、苦しみ、不満は、
すこしずつ消えて行きます。



「定まり精進努力して」とは。

1. 心を、しっかりと定めて動揺しない事。
2. 精進、努力、工夫をする事。
3.「善い行い」をする事です。


善い行い」をして、
一日でも生きる方が、

怠惰に過ごすよりも、
はるかに勝れているのです。


この詩では

「坐禅瞑想」:「止」と「観」に
努める大切さを教えています。


」-静かに坐って、
    心を、そっと鎮(しず)めます。

    自らの心・息に集中します。

    今、ここ、この瞬間
    今、ここ、この一呼吸


    一呼吸、一呼吸ていねいに
    「気づきの呼吸」をします。


」-日頃、意識しないで、行っている
    「呼吸」に集中する事で、
     怒りや、不安が落ち着いてきます。

    無駄な情報や、思考を断ち、捨て、離れ、
    観透(みとお)す意(こころ)「智慧の眼」が
    具わってくる事を感じます。





  病気ではなくても、われわれは時に
  この生きる勇気を見失いそうになることが
  あるのではないか。

  (『アドラーをじっくり読む』中公新書ラクレ 岸見一郎p.78)







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Ⅲ 第90回「ダンマパダ111」

紫坐禅草Dhp111


「ブッダの語ったとされることばに最も近い教え」



   「法句111」


智慧(ちえ)が無く
心が

静(しず)まる事なく
百年生()きるよりは

智慧をそなえ
坐禅瞑想(ざぜんめいそう)をして

一日生きる方(ほう)が
勝(すぐ)れています







【場所】ジェータ林(祇園精舎)

【誰のこと】カーヌ・コンダンニャ(切り株のコンダンニャ)長老





【原因と結果】

カーヌ・コンダンニャ長老は、
ブッダから瞑想対象を受けて、

森に入って、
坐禅瞑想に励みました。


怠ける事なく、懸命に精進努力して、
練修修行に努めました。


やがて「道」を極めた境地に達して、
阿羅漢となりました。


練修修行の結果を、
ブッダに報告したいと思って、

森を出発しました。


その途中、歩き疲れたので、
岩の上に坐って

「坐禅瞑想」:「禅定」に入りました。



その岩のところに、
村を襲った、

500人の盗賊がやって来ました。


けれども、盗賊たちは、

カーヌ・コンダンニャ長老には、
まったく気がつきませんでした。



盗賊たちは、
長老を、樹の切り株だと思って、

長老の頭の上に盗んだ品をのせて、
眠ってしまいました。


盗賊たちは、目を覚まして、
カーヌ・コンダンニャ長老に気がつき

「あっ!人間だ!」と叫んで、
逃げ出そうとしました。



そこで、長老は言いました。

カーヌ・コンダンニャ長老:
「在家の人たちよ、
何も恐れる事はありません。

私は出家の者です」


盗賊たち:
「尊者よ、
お許しください。

樹の切り株だと、
思ってしまったのです」


盗賊たちは、
長老の足元にひれ伏して、詫びました。

そして、
盗賊の頭は懇願(こんがん)しました。


盗賊の頭:
「尊者よ、尊者のところで、
私を出家させてください!」


盗賊の頭が、このように言うと、

残りの盗賊たちもすべてが、
出家を願い出ました。


カーヌ・コンダンニャ長老は、
彼らに

十の善行の道」:「十戒」を授(さず)け、
全員を出家させました。



カーヌ・コンダンニャ長老は、
500人を伴って、

ブッダのところへ行きました。



ブッダは、
カーヌ・コンダンニャ長老の

話を聞かれて、500人の
出家を認めて、言われました。


ブッダ:
「修行僧たちよ、

盗賊のような
「智慧」の無い行いによって、

100年間生きるよりも、
たった今から

「坐禅瞑想」:「禅定」に入り、

「智慧」をそなえて、
一日でも生きる方が、

本当に
勝(すぐ)れているのです」 と。






【教え】

「心が静まる事なく」とは。

確かに 私たちには
欲があります。


しかし 自分自身の利益だけを
求めているうちは、

心が、
落ち着く事はありません。


何ものにも縛られないで、
静まりを得て、安らぎ、

自由な境地に達するには、
どのようにしたらよいのでしょうか?


それは

「坐禅瞑想」に入る「禅定」:
「止」「観」によります。


」― 静かになって、静かに坐ります。
     息・自らの心(気づきの呼吸)に集中します。


」― 自分自身の身体と心[五蘊]を、
     よく観て、深く観透す「智慧」をそなえます。

    



この詩では
2つの「教え」が説かれています。


1.「坐禅瞑想」:「禅定」に入る事。
  今の心に集中して、よく観て、深く観透す
 「気づきの呼吸」を行います。


2.「智慧」をそなえる事。
  自分自身の身体と心[五蘊]を、
  よく観て、深く観透して「智慧」を獲得します。





 「人生を先延ばしにしない」...
 先延ばしにしないということは、
 幸福になるための一つのちょっとした、しかし、
 大切な心構えだろう...   
  (『アドラー心理学実践入門』KKベストセラーズ 岸見一郎 p.192)








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プロフィール

ふつ庵

Author:ふつ庵
「茶室で坐る坐禅と一服の茶 
そして ブッダのことのはをまねぶ庵」庵主

2,500年前
「ブッダの説いた教え」
「法の句」を物語ります。

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